史跡・博物館等

恩田木工民親(1717-1762) 恩田木工氏親は、松代藩財政の建直し充実をはかリ優れた民政を行った人として、また江戸時代の経世家として名高い。 享保2年松代に生れ、30歳で家老職となり宝歴7年(1757)真田家第6代藩主幸弘公に抜擢され、41歳で家老職勝手掛となって窮乏する藩財攻建直しを命じられた。 民親は正義を政治の基本として自ら虚言しないごとを契り、財政窮乏を救う道は倹約が第一であるとして自ら実行し、納税法の改正荒地の開墾、養蚕殖産興業をすすめ 一方詩歌・音曲を奨励して生浩に楽しみを与え、民生の安定をはかり藩財敗の建直しを成功させた。 しかし、宝暦12年(1762)在職僅かに5年46歳で病没した。墓は松代町田町の長国寺にある。民親の事績は『日暮硯』によって、すでに江戸時代に全国的に知られ、その写本が流布した。 松代史跡文化財開発委員会

仏教の経典を収納するこの経蔵は、万治3年(1660)に建てられたことが、棟札により知られている。 建物は、6.4メートル四方の主屋の周囲に裳階(もこし)と呼ばれる庇を廻らした一重の茅葺方形(かやぶきほうぎょう)造りです。庇の桟瓦(さんがわら)は、江戸時代末期ごろに替えられたものとみられる。 主屋には、正面と背面の二か所に桟瓦(さんがわら)戸を、一部に連子窓(れんじまど)(格子入忠窓)を設けるだけで、間ロ部を少なくした板蔵の一種です。内部は一室空間の板敷、格天井をあげ中央に八角形の輪蔵(りんぞう)を据ている。わが国の仏教寺院の中でも輪蔵を備えた経蔵は極めて少なく、江戸時代初期の貴重な存在となっている。 開善寺 長野市教育委員会 建造物 開善寺経蔵 長野県宝 昭和41年10月3日指定



第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最期の拠点として、極秘のうちに、大本営軍司令部 参謀本部 政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日午前十一時着工翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九ヶ月の間に当時の金額で二億円の巨費と延三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として動員され突貫工事をもって構築したもので全工程の75%完成した。 ここは地質学的にも堅い岩盤地帯てあるばかりでなく、海岸線からも遠距離にあり、川中島合戦の古戦場としても知られているとおり要害の地である。 規模は三段階、数百米に亘る、ベトン式の半地下建造物、舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤の目の如く縦横に掘抜きその延長は十粁余に及ぶ大地下壕である。 現在は世界屈指を誇る気象庁の地震観測所として使用され、高倍率のひずみ地震計はじめ各種高性能観測機が日夜活躍している。 長野市観光課